かんたらの雑記ブログ

情弱が情弱なりに色々書きます

東日本大地震の思い出

今朝このブログを開設したのだが、そういえば今日ってあの日から10年じゃん!と気付き急いでこれを書いた。これを読んでも得るものは特にないと思うが、単純に読み物として読んで頂きたい。

 

目次

 

揺れ

当時俺は仙台駅近くの専門学校に通っていて、その日も学校の15階の製作室的な部屋で進級課題に取り組んでいた。つまりモロに揺れた。

 

当時は小さな揺れが頻発していたのもあり、クラスメイトもまた揺れてるな〜みたいな反応だった。しかし揺れが長い、というかいつもと違って縦に揺れてる気がする、あれ?デカくね?ヤバくね?やばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばい!!!!!!!!

 

携帯を弄っていた奴も、ポケモンをしていた奴も、女子も、オタクも、ヤンキーも、1人残らず机の下に避難した。俺は道具を取りに教室の端の方にある棚の前に居たが、皆が居る机の下に滑り込んだ。揺れの音と、何かが倒れたり壊れたりする音と、隣の友人のやばいやばいという叫び以外何も聞こえなかった。本当に死ぬかと思った。

 

長い揺れが収まり、机の下から這い出て周りを見渡す。教室の中はメチャクチャで、さっきまで俺が居た場所にある棚も倒れていた。電気も切れていて非常照明が作動していた。住宅模型を作るという課題だったのだが模型がお釈迦になってしまった友人が居て、俺含め何人かがそれを見て笑っていた。多分皆少なからずハイになっていたんだと思う。

 

数分後、職員室から先生が戻ってきて「今すぐ学校から出ろ!」と言った。15階から1階まで階段で降り外に出た。先生が生徒を集めて大声で何か話していた。殆ど聞こえてなかったが、気をつけて帰れ的な事を言っているのは分かった。

 

避難

外は人で溢れていた。みんな着の身着のまま外に出たという雰囲気で、中でも印象的だったのはコック帽を被ったままの人。それは脱いでもええやろと当時は思っていたが、今思うと人混みの中でも目立つというメリットを取っていたのかもしれない。

 

ところで俺は当時山形からバスで2時間かけて仙台まで通っていた。帰れないのでは?という考えが頭の中をよぎった。バス停に行くと人と車でごった返してて、これは無理だなと悟った。という事で一緒にいた一人暮らしのK君の家に6名程で泊まる事になった。持つべきものは友である。

 

仙台駅周辺はぱっと見目立った被害は見受けられなかった。外壁のタイルが剥がれたり建物にヒビが入ったりしている程度で、案外何ともないんだなと思っていた。ネットもテレビも繋がらないのでこの時は津波原発の事など知る由もなかった。

 

K君の住むマンションに着く。何階かは覚えてないが、エレベーターも当然動かないので階段で上がった覚えがある。学生一人暮らしの部屋だが6人で寝れる程度には広かった。照明も暖房も付かないので薄暗い部屋で上着を着て過ごした。それぞれが持っているお菓子やジュースをみんなで分け合った。

 

誰かがしっこがしたいと言い出した。釣られて何人かが思い出したように尿意を訴えた。しかしトイレは流れない。この状態のトイレで用を足すのは人として終わるので外で済ませようという事になった。外に出ると微かに雪が降っていて身震いした。高架線の下の目立たないところに行き皆で立ちションした。立ちションなんて10年ぶりにしたし、以降10年していない。俺は恐らくこの立ちションを一生忘れる事はないだろう。あと便意が無くて本当によかった。

 

K君宅に戻り、真っ暗でやる事も無いので眠りについた。俺はバイト無断欠勤しちゃったなぁとか考えていた。それどころじゃないだろと思われるかもしれないが、当時は仙台駅周辺以外がどれくらい揺れたのかも全く分からなかったので本当にそんな事を考えていた。

 

奇跡

次の日の昼、とりあえず明るいうちに外に出てみようという事になり、3手に分かれて食料を探しに街を彷徨った。俺は俺と同じく山形からバス通学していたY君と一緒に行動した。

 

宛もなくぶらぶらしていると、災害時にも稼働する自販機を見つけた。とりあえず全員分のポカリを買いバッグに詰め込んだ。今思うとポカリ代返してもらってないな…

 

その後もぶらぶらしていると、なんとY君の両親とバッタリ遭遇。Y君の事が心配になり山形から車で来てくれたらしい。携帯も繋がらない中人の多い仙台駅周辺で偶然出会えたのは紛れもない奇跡だと思う。そしてちゃっかり俺も乗せてもらえる事になった。やったぜ。

 

待ち合わせ場所を決め一旦K君宅に戻る。他の2チームはそれぞれ和菓子屋で饅頭を、スーパーでウインナーを獲得していた。良い感じに主食おかず飲み物が揃ったのも奇跡だと思う。饅頭が主食として成立するのかどうかは微妙だが。

 

帰宅

その後K君宅を後にし、Y君の両親と合流し車に乗せて貰った。時刻は覚えていないが夕方か夜だったと思う。普通なら2時間程度で着くのだが震災の影響でどえらい渋滞になっており、家に着いた頃には次の日の昼前になっていた。Y君のご両親本当にありがとうございます。

 

帰宅すると母にメチャクチャびっくりされた。そらそうか。山形も電気は止まっていたが、ガスと水道は生きていたのでとりあえず温かいシャワーを浴びることはできた。当然バイト先も休業していた。

 

次の日か2日後か忘れたが、突然電気が復旧した。とりあえずテレビを付けると津波被害の報道が流れていた。ここで初めて揺れ以外の被害について知った。衝撃だった。

 

その後

学校は5月の連休明けまで休校となった。バイト先は1週間ほどで営業再開し、しばらくはバイトとゲームに明け暮れた。親戚や知り合いにも家が流されるなどの被害にあった人はいたが、幸いにも怪我人や死者はいなかった。

 

ちなみに学校の進級課題はまだ全然出来ていなかったのだが、それどころではない状況だったという事で無事に全員進級となった。それだけは本当に有り難かった。

 

もう10年前の事なのでうろ覚えや勘違いがあるかも知れないがご了承願いたい。揺れはモロに受けたとはいえ津波などの被害には遭ってないし、被災したと言って良いのかどうか微妙なところ。俺はいろんな幸運が重なりこの程度で済んだけど、今も尚被害による苦しみが続いている人もいるだろう。なんかメチャクチャ真面目な記事を書いてしまったな。

 

暗い話も偉そうに教訓を語るのも得意ではないのでこれで終わりとさせて頂く。最後まで読んで頂きありがとうございました。